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私の頭も、脳みそごと by 安室凛

ジャンル

長さ

  • 掌編
  • 1,514 文字
  • 3 分ぐらいで読める

あらすじ

 アラサーになって行きつけの飲み屋ができた私は、そこで1人の男と知り合う。ある日、私が食べ終えたアジの開きを見て彼が言った。
その魚の頭、食べてもいい?
 この言葉の持つ強烈なインパクトと親しさにとらわれて、私は甘い気持ちで、そのことを繰り返し思い返すようになった。

レビュー(ネタばれ注意)

 飲み屋を舞台にした、純文学寄りの恋愛小説掌編。話の筋にはそれほど大きな特徴はないが、小説の小道具の使い方がしゃれていて、淡い、アラサー女性らしい恋を描く雰囲気がすごくよかったので、レビューさせていただくことにした。

 アラサーのヒロインには『はじめ』という名前の行きつけの飲み屋があり、そこで1人の男と知り合う。彼女は自分よりいくらか若く見える男に
私ね、30歳になったから、1人でお酒を飲める女になりたくてね、それでこのお店にきたんだ
 と言って、歳を聞き出すための鎌をかけるが、彼は年齢を明かす代わりに
女の人って不思議なこと言うよね
 と答える。そして
不思議?
 と訊き返すヒロインに
年齢なんてどうでもいいじゃん
 と語る。ここで彼らが何を思ったかは書かれていないが、いく通りにも行間を読むことができておもしろいシーンだ。

 その少し後で肝になるやりとりがある。ヒロインが食べ終えたアジの開きを見て
その魚の頭、食べてもいい?
 と男が思いがけないことを言い出すのだ。彼女はその言葉に強烈なインパクトを感じ、また自分の食べ残しがほしいという男に対して「突然、距離を詰められた気が」する。彼は魚を箸で丁寧にほぐし、目玉から口まで実に美しく食べ上げる。これで彼女は恋に落ちたらしい。ここの所の微妙でおくゆかしい恋愛の描き方が実にいい。その後ヒロインは彼の言葉や魚を食べる指使いを、甘美な気持ちとともに何度も思い返すようになる。

 それからヒロインは同じ飲み屋で彼に1度会い、2度会い、3回目に会った時には季節が変わって夏になっている。
もう夏だね、どこか遠くに行きたいなぁ
 と彼女が呟くと男はそれには答えず
次は何を飲むの?
 と訊く。この時点で、彼女は自分の置かれた状況に気づくべきだったのかもしれない。だが、残念ながら彼女はそんなに鋭い女性ではなった。その結果、次に飲み屋で彼と会った時に、婚約者と一緒にいるのを見てショックを受けることになる。彼と婚約者のいるテーブルにはきれいに食べ終えた焼き魚が載っかっていた。小説の最後に出て来るそのシーンを引用する。

テーブルの真ん中には、美しく食べ尽くされた焼き魚。

残っているのは骨と尾ひれだけ。

なんだ、30にもなって、私はこんなことに動揺するのか。

いっそ、私の頭も、この愚かな脳ミソごと、食べ尽くされてしまえばいいのに。

 1人で舞い上がった末に失恋したヒロインの姿を骨と尾びれだけになった魚の姿に重ね合わせる、感傷的でアーティスティックな書き方がうまい。小説の前半に出て来た焼き魚が、こんな形で伏線になっているとは思わなかった。

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